梅干の効能・歴史
驚異の梅パワー
梅は人間の体の中で直接、血や肉となるものではありませんが、体の基幹部分すべてにエネルギーを与え健康にしてくれるものです。高齢化が急ピッチで進んでいる今の時代に梅は、健康管理に利用したい栄養食品です。
梅酢から抽出したポリフェノールが、微量でインフルエンザウィルス等に強い増殖抑制作用や消毒作用があり、安全性も高いものであることが分かりました。
酸性食品をとりすぎると血液は酸性に傾き、血液が汚れて流れにくくなります。梅はカリウム・カルシウム・マグネシウム・鉄分などアルカリ性ミネラルを含む食品。酸性食品中心(加工食品など)の食生活を改善し、血液を弱アルカリ性に保つ手助けをしてくれます。
梅には野菜や果物の中でもトップクラスのクエン酸が含まれており、疲労防止、疲労回復に効果があると言われています。腸から吸収された食物は、分解されて炭酸ガスと水となり、その間にエネルギーが生み出されますが、このサイクルが円滑に回転しないと多量の乳酸がたまり、慢性疲労に陥ってしまいます。このサイクルを円滑にするのがクエン酸なのです。
日本人が慢性的に不足している栄養素がカルシウム。カルシウムは非常に吸収されにくい栄養素ですが、梅に含まれるクエン酸はカルシウム吸収の手助けをします。
弁当に梅干を入れると腐敗しにくいということはよく知られています。これと同じように梅干の酸は胃腸内の病原菌を殺菌、繁殖を抑える効果があると言われています。
梅干の由来
『貞丈雑記』には「菓子は、むし菓子や干菓子のことではなくて、果物を菓子という」と書かれています。また『和名抄』にも梅は木の実・果物に分類され、奈良時代の人々は、桃やびわ、なしなどと共に梅を生菓子として食べていました。
日本最古の医学書『医心方』は、平安中期の医師、丹波康頼(たんばのやすより)が984(永観2)年に著したもので、六朝・隋・唐時代の中国や朝鮮の医薬書から引用した医学全般にわたって説かれた本です。この文献の中に「梅干」の効用がとりあげられています。
武家社会のもてなしは「椀飯」と呼ばれ、クラゲ・打ちアワビなどに、梅干しや酢・塩が添えられたご馳走でした。兵士の出陣や凱旋の時に縁起がいい食物として、また、禅宗の僧は茶菓子として、梅干を用いました。
※「椀飯ぶるまい」はここからできた言葉です。
江戸時代に著された「雑兵物語」には、戦に明け暮れる武士は、食料袋に「梅干丸」を常に携帯していたと書かれています。梅干の果肉と米の粉、氷砂糖の粉末を練ったもので、激しい戦闘や長い行軍での息切れを調えたり、生水を飲んだときの殺菌用にと大いに役立ちました。また、梅干しの酸っぱさを思い、口にたまるツバで喉の渇きを癒したそうです。
江戸庶民の梅干を食べる習慣が、全国に広がるにつれ、梅干しの需要はますます多くなりました。特に、紀州の梅干は「田辺印」として評判を呼び、田辺・南部周辺の梅が樽詰めされ、江戸に向け、田辺港から盛んに出荷されました。
一部の人しか食べられていなかった梅干も、江戸時代になると庶民の過程にも登場するようになります。江戸では大晦日や節分の夜、梅干に熱いお茶をそそいだ「福茶」を飲み、正月には黒豆と梅干のおせつ「喰い積み」を祝儀ものとして食べました。
明治11年、和歌山でコレラが発生し、翌年にかけ1768人の死者が出ました。このとき、梅干の殺菌力が見直され需要が急増します。また日清戦争の頃、軍医の築田多吉(つきだたきち)が、外地で伝染病にかかった兵士に梅肉エキスを与えて完治させ、梅干の薬効を実践しました。
梅干の歴史
わが国において梅は、寒さに耐え、桃や桜に先駆けて美しい花を開き、馥郁たる香りを漂わせることから、万葉集では桜の四十二首に対し、百十八首も詠まれています。このように梅は、「観梅」「松竹梅」といった言葉からもわかるように古くから日本人の心に深く関り愛され親しまれてきました。
わが国の梅は、中国からの移植説と日本古来の原産地説とがあり、定かではありませんが、文献・学者の多くは中国原産地説をとっている日本では、花がまず人々の関心をひき果実の利用はその後になったのに対し、中国では果実の利用が先であったようで、古事記が成立(712年)する二百年余り前の「斉民要術」に梅の塩漬けが記録されています。
日本で梅干しが初めて書物に登場したのは、平安時代の中頃であり、中世以降において果実の利用が盛んになってきました。
鎌倉時代以降、実の多くは梅干しとして食用に供され、薬用としても重宝がられ、花は鑑賞用として人々に愛されてきました。また、木は硬質のため、器物に使用されていたようです。
以来、梅干しの需要が大きくなるとともに、現在では梅酒や梅ジャム・梅エキスなど、梅製品が数々生まれてきました。
和歌山県では、江戸時代、紀州藩田辺領下において農民がやせ地は免租地となることから、そこに梅を栽培したことが本格的な梅栽培の始まりと言われています。
また、田辺領(城代家老 安藤直次)がやせ地を利用した梅の栽培を奨励し、保護政策をとったため、田辺、南部地方を中心に広がったとも伝えられています。
江戸時代中期には、江戸への紀州の木材、木炭、みかんとともに梅干しが送られていましたが、そのころの梅は「やぶ梅」と言われ、現在栽培されているものとは比較にならないほど品質は劣っていました。
明治初年頃から梅干製造業者も出現し、明治10年代にはコレラ、赤痢などの流行があったこと等から梅干しの需要が多くなっています。
梅の栽培が急激に増加したのは、明治40年以降です。これは、日清・日露戦争による軍用食としての梅干し需要の増加によるものでありました。また、第二次世界大戦中にも奨励されたこともあり、生産量が急増したものの、第二次世界大戦末期から昭和22年頃までは、食糧難のため、梅の木を伐採してサツマイモ等を栽培したことから、梅の栽培面積が著しく減少しています。戦後、社会経済の復興とともに、果実類の需要も増加し、梅の栽培も昭和30年代以降は急速に伸びています。
優良品種の「古城」「南高」の出現と高度成長期に入り、食生活の多様化による梅の需要の伸びとあいまって、昭和35年頃からさらに、栽培面積が増加しました。
一時、梅干し需要の伸び悩み等で、栽培面積増加傾向も横ばいとなっていましたが、昭和56年頃より自然食品や健康食品ブームによって梅干しが消費者に見直され、価格の上昇と面積の増加が図られており、質・量ともに日本一を誇っています。
また、それとともに、加工面においても梅干し、梅酒だけでなく、ジャム、エキス、ジュースと多方面に活用されブランドの紀州梅産地として発展を遂げてきているのです。